昭和52年02月06日 朝の御理解



 御理解 第44節
 「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」

 教祖様はまたの教えに、「この世で神にならずして、あの世で神になれるか」と言う様な御教えがあります。「この世で神にならずして、あの世で神になれるか」と、金光様のご信心をさせて頂きます。段々分かってくると生き死にを通して、金光大神にお取次ぎによってと言う事になって参ります。同時に改式と言った様なものにもなります。だから金光様のご信心を頂いて改式をしとれば、御霊の神いうなら、神様になれるかというと、そうではない事が分かります。
 だから私共は、結局、この世で神にならずして、あの世で神になれるかと。だからこの道さえ行けば、必ず神になれるという、絶対の道を私共が覚えさせてもらい。その道をこの世で、一生懸命辿らせてもらい。しかもそれは魂の世界に入っても、その道を辿らせてもらい、修行させて頂くと言う事になりますと、やはり神にまつられ、神になると言う事になるのです。
 だから間違いのない信心を基盤として、しかも生まずたゆまず、その信心が精進されていかなければならんと言う事になります。人間は万物の霊長なればとこう仰る。私共のいうならば我情を取り、我欲を取りいうならば我を取る。そこにいわば霊長としての値打ちが発揮される。言うなら霊光をはなつことが出来る。世の光にもなろうというのは、そういう我情我欲、まあいうならば我を取った人の姿であると思うんです。
 先日熊本の、矢野先生が、今ここで修行しておられます。熊本一番ゴヒレイの立つ教会です。そこのまあお嬢さんです。もちろん教職を頂いておられる。まあ全国それこそ津々浦々ゴヒレイの、ま輝く教会をともう撰歴し、廻っておられるようです。まだからどこの教会の事でもよくご承知。先日からも大阪の阿倍野、それからあちらは、泉尾が今年は五十年の記念祭でしたから、その記念祭にもお参りになられて、先生とも親しく会われて、まあいろいろ信心の、まいうならばゴヒレイの秘訣とでも言おうかね。
 そう言う様なものを、まあ探求しておられるわけです。先日からまあだ今も、今日もおられますが、先日その泉尾で御道の、いうならば先生として取次ぎ者として、どういう心掛けにならせて頂いたら、人が助かりまた自分も助かって行けるでしょうかというお伺いをしたのに対して、御神米にお書き下げを下さってあります。それにはね捨てて、捨てて捨ていくと言う事がありますね。捨てて捨てて捨て切って。死んで死んで死に切って、神愛に生きよと言うておられます。
 けれどもこれは必ずしも、金光様の先生でなからなければ、あのなんですか、祈願詞にも申しますように、世の光ともならせてもらわなければならんのですから。ですからそのお互い、自分自身が光を持たずして、光を放つことは出来ませんし、潤いもありません。ほんなら自分の人間は誰しもが、万物の霊長だからというて、霊光を放っているかというとそうじゃない。
 やはり付いてきておる、何十年の間にいうならば、垢や汚れと言った様なものが、我情になり我欲になり、いわゆる我になっておりますから、その死んだ気でとか、捨てて捨ててとか死んで、死んで死に切ってと言う事は、あのこれはこれを繰り返すと言う事なんです。もう私からこの我情を取ったら、この我欲を取ったらもう、生きる楽しみもないと言った様な場合になるかもしれません。
 それでもそれにやはり取り組んでいくと言う事です。だからまあいうならば、大変難しいようですけれども、最近合楽で言われる、合楽理念に立脚してと言う事になりますと。楽しゅうしかも有難く、間違いなく生神に向って進んで行き、間違いなく、今日の御理解で言うならば、死したる後神にまつられ、神になることを楽しみの信心を、合楽では合楽理念に基づいての信心をと、まあ強調しておるわけであります。
 先日ほんなら、合楽理念とは一口に言って、どう言う事かと言うと、絶対の道であり楽しく、有難く分からせて頂く道だと言うのです。合楽理念というのは、先日もある御本部の偉い先生が電話をかけて見えました。そしてその合楽では合楽理念と言う事を言ってるそうだが、大体合楽理念とはどう言う事かと。「合楽理念ちゃ、合楽理念くさ」と言おうごたる感じのその電話でした。「一口で言われるか」と。
 だからこの、合楽理念と言う事は、この合楽という、部落名の合楽ではなくて、合楽とは神様と私共が。拝みあうという意味なんだと。それには合楽という言葉を使わなければ、その御神願に添わないことになるのだと。合楽がここに誕生すると言う事は、いうならば何時も申しますように、先ず善導を受けなければ善導寺。そして有り難く勿体なくならなければいけない、勿体島そして心に花をという椛目、そしてその心の花を常に持ち続けるという常持。
 そしてその次にあるところの合楽と言う事にならなければならんから、このどうでも合楽という言葉を使わなければ。合楽示現活動でもやっぱりそうなんです。合楽理念という事でもそうです。だから金光教の中にすっぽりとその、合楽と言う言葉が入らなければ。だからもう合楽の者は、合楽の事ばっかり、自分たちの事ばっかりを、まあ言うとか宣伝するとかと言う様な風潮もあるわけなんです。ですからま私はその時に、一口で言えるもんかと。この事を頂いとったら、こう言うとったでしょう。
 昨日電話で合楽理念とは、大体どう言う事かと。合楽理念とは一口に言って、絶対の道なのだと。しかも楽しく有難く分からせれる道だ。で、それを例えば今日の御理解を引用痛しますと。神になり神にまつられる事を楽しみに、信心しよるとです。その楽しい道なんだ。そういう道というのは。それを絶対の道しるべというものが無いし、目指す所が違うから難しい事になって、果たしてこれは生神への道だろうかと。
 東京へ行く人なのに、自分は鹿児島行きのほうへ、姿勢を向けておるのじゃなかろうかと言う様な迷いすらが起こってくるのであります。だから合楽で言われる、その絶対のその理念というのは、もう一口に言って絶対の道であると同時に、楽しく有難く生神へなれれる道なのだというわけであります。そこで今日はその楽しく行けれる、まあその一部のところをまあ聞いて頂こうと思います。
 四十四節という事はね。しじゅうし節と言う事だと、これは始終と言う事は何時もと言う事、死節もう何時もがいうならば、死んだ気でと言った様な風にも頂けんこつは無いですね。しじゅうし節ですから。いわゆる泉尾のそれこそ、日本一といわれる先生が言っておられる、捨てて捨てて捨て切って。死んで死んで死に切って、神愛に生きよとこう言う。だから捨てて捨ててとか、死んで死んでとか言う事は、大変難しいごとある。
 けれどもほんなら、合楽で説くところ。一歩一歩。一遍にと言う事なんか出来るはずはありません。私共がこら生涯かけて、掛けていかなければならないことですけれども、その一歩一歩進んでいくことが楽しいのである。一歩一歩向上することが、開けてくるいうならば視野が楽しいのであり、有難いのである。最後に、神愛に生きよと言う事になってまいりますとね、もう神愛の中にあっての事なのだからという。
 昨日は壮年部会でございましたが、佐賀のご信者さん方が一連れ、今日の寒修業にあいたいと言うので、昨夜から見えておる。その方達もご一緒に話を聞いて貰ったんです。中々良い会合でした。そのなかに、昨日は西岡先生の司会で、秋永先生が一番に指名を受けて一番に発表しておられる。まあなんとも言えんまあ有難いお話でした。というのは先日から夜遅く、まあお商売なさっております。家に帰ってきてそしたら、お風呂に入るぞと言うた所が、家内が「風呂は沸かしておりません」と言うた。
 それでまあ自分でお風呂を入れて、それから入らせて頂いた。そしたら自分も裸になってから入って来よる。だからこれを普通でいうならば。この余り寒いとに主人が働きに行って帰ってくるのだから、風呂どもちゃんと沸かしとこう、あれも準備しておこうというのが本当じゃないか。そして入らんと思いよら、お前も入りよるじゃないかち。まあ言いたい言うところでしょうね普通なら。
 けれども秋永先生がその事を取り上げて。このくらいな事で、自分の信心のエネルギーを費やしては勿体ないと思うたという話をしております。素晴らしいですよね。口上やら、不平やら不足やらと言う事は、折角ここに信心のエネルギーというものが貯まっておるのを、浪費するようなものだ。折角使うならもっと尊いこと、有難い事に使わなければならない。自分がいよいよ力を受けていく、いよいよ光を受けて行く事の為に使わなければならないと言うのです。
 私は今朝方、控えに控えておりましたら、本当に何分かでありましたけれども、あのコオロロギの鳴く声を聞きました。ここで何時も秋口になりますとコオロギが鳴くんです。やかましいぐらいにある。もうなんとも言えん良い、いうなら声で秋の虫がいわゆる、集く(すだく)わけです。それを何分かではあ、今頃コオロギがおるはずは無いのに、なるほど昨日から頂き続けておることやらを、思い合わせてまあ感じた事でしたけれども、昨日は、西岡先生がお夢の中に、鈴虫の声を聞いた。
 そして今まで話には聞いておったけれども、聞いたことが無いかんたんという虫の音を聞いた。その鈴虫の音もそれこそ、あの素晴らしいですけれども、かんたんという虫の音は、そらもっと素晴らしいんだそうです。私も昨日初めて聞きました。そして先生どう言う事でしょうかと言うて、昨日ここにお伺いに参りましたから。いうなら自然の調和と言う事。自然のかもす音律と言う事。
 先日から、御理解の中にも頂きましたですね。日と光と書いてあきらと読む。この日と光が一つになると言う事は、神様と氏子の信心の光とが、一つになる時にその意味は、どう言う事かというと、輝き光る事だとあります。同時に日と光の音律とあります。これは字引を引いたら、そういう風に説明がしてあります。日と光の音律だ。それはそういう日と光の音律が、言うなら調和が取れる様になると、輝き光る様ないうならば人生。ここで言う真善美に輝かんばかりの生活が出来る様にもなると言う事なのだ。
 いうならば神様のお心と、私共の心がぴったり寄り添うた時、合楽の世界なんです。そこにいわば一つのリズムが生まれる。そのリズムに乗った生活。そのリズムに乗った生涯。もうこれは生神への道を辿らせて頂かなければ、体験することは出来ない素晴らしい道だ。私共はそれを断片的にです。はあ本当に素晴らしいなあと。天地自然の一つの音律であり、リズムを聞かせて頂きますと、もう本当に例えばそれが辛いこと、苦しいことでありましても、その音律に乗っての生活ですから楽しい。
 私は楽しゅうと言う事、楽しく有難く分からせて頂く道が合楽理念だという。その合楽理念というのは、そういう音律を聞き続けていく、術とか道を教えるのだ。そのために一つ本気で天の心を知り、天の心を学ばなければならない。地の心を分からせて貰うて、地の心に添うて行かなければならない。日月の心。いうならば限りない実意な心。なそうと思えば、子供でも成せる様な事を、疎かにしておった事に気付かせて貰うて、それを一つ一つ自分のものにして行く、いやそれを行じていくという生き方。
 そこで思うんです。今日私御祈念中に頂いたことは、こう子供のときに縄跳びを致しますよね一人で。そして向こうの方から入って、それにはあっと入ってくる、あの飛び方があるでしょう。二人で飛ぶわけです。本当、神様と私共との間というものが、あのこういう一つの調子が要るんです。飛び込むいうならばチャンスがあるです。いきなり飛び込んだって入れません。そして二人一緒に飛べれる。言うなら楽しさと言った様なね。いわゆる、合楽の世界に住むと言う事は、そういう素晴らしい事なんです。
 それをそれに合わせようとも、辿ろうともしない。これはいうならば、合楽理念を知らずして、ただお参りをしてお願いをしておかげを頂く。そして教えは頂きよるけれども、その教えが行じたり、行じられなかったりと言った様な事では、おかげにならぬ。私は思うんです。今日私がコオロギの鳴く音を聞いたと。西岡先生は鈴虫の声やら、かんたんの声やらを聞いた。そこでまあ私共の天地との馴れ合いというか。
 そのリズム音律に乗っておるというのは、ちょうどまあコオロギの鳴く音にあわせておるようなもんじゃなかろうかと、私はそう思うた。これから段々鈴虫の鳴くような素晴らしい、また音律にもあえれるようにもならなければならない、またかんたんと、それこそ感嘆の声を上げれるほどしの、かんたんの虫の音というのは、私は知りませんけれども、まあ、最高な虫の鳴き声だと言う事ですけれども。そういう一つの過程を、今日私に教えてくださって、今日の御理解を皆さんに聞いて頂く事だと思うた。
 だから先ずはそのコオロギの音色にでもです。私はあの耳傾けれるだけではなくて、そのなかの、本当にいわゆる「集く(すだく)虫の音、ススキの陰に月を見ている、形二つ」と、これは都々逸の文句です。いい文句でしょう。「集く(すだく)虫の音、ススキの陰に月を見ている、形二つ」だから、その虫の音色をです。例えば夫婦で聞けれるほどしの信心が必要だと言う事です。なら秋永先生の、昨日の話を頂くと。お父さんだけは、なんとも言えん、本当に信心ちゃ有難い事ではあると。
 こ言う事でも文句を言わんで済む自分だと言う事は、自分だけが聞いておるようなものです。これが夫婦で聞けれ家族で聞けれるような、おかげを頂かなければいけんです。もう三十何年も前に、母が頂きましたお夢の中に、椛目のあの元の家の前が、いっぱい大水であった。もう家のなかにもいっぱい水が、どんどん入ってきよる。そこへ向こうの方から、あの大きな船がやってくる。しかもその船には梅の実がいっぱい積んである。しかもその先頭を、私がその自分の家に引き入れようとして綱を引いておる。
 後ろから家内やら妹やらがもう、こうこ引っからげて後押しをしよる。船の上にはまあだ五、六歳の若先生が、日の丸の旗の扇子をこう広げてから、ガンバレガンバレと言うて、船の上で言いよる。言うなら家族勢を揃えて、その梅の実を自分の家に引き入れようとしておるというお知らせを頂いた。梅の実というのは信心辛抱が実ったと言う事である。しかも私の方の場合はもう、親も子も孫ももう一丸になっての、言うならば信心であったと言う事でございます。
 だから先ずね、そのリズムを聴くと言うても、神のおかげをおかげと知ると言う事も、先ず家族が勢を揃えた信心にならなければいけないと言う事。そこから家族家の中に光が頂けれる力が頂けれる。そしてならいうなら、人のお役にも立たせて頂けれると言う程しのおかげになってくる。そら苦しい事様々な、それこそ梅の花が寒中に。それでもつぼみを付けて花を開いていくような。
 耐えられんところを耐えていくと言う様な所も通らせて頂いておりますけれども、さあそれが花ともなり、満開ともなるころには、それこそ鶯が来て止まる様なおかげにもなり。しかもその実はいよいよ沢山な徳になり、沢山な人が助かることの元にまでなっておる。いうならば捨てて捨てて、捨て切ってと言う様な所を、辿らせて頂くと言う事は、なるほど難しかったと思いますけれども、家族勢を揃えての事ですから、いわば楽しゅう出来た。御本部の月参りなら月参りさせて頂くでも。
 もう無いはずのお金が、どっからか出てきた。それは家族のものが捻出してくれた。妹なんかは、自分の亡くなった主人の、いうならば形見まで売ってしもうた。そういう一つの過程に、調和が生まれるところに、自他共に助かるような道が開けてきたわけなんです。そこで私が思うのですけれどもね。先ず自分の取り縄に家内を入れなければならない、子供を入れていかなければならない。家族があわせて言うならば、おかげを頂いてもですよ、どんなおかげを頂いてもです。
 主人が「はあ、おかげ頂いて有難いなあ」と言うとっても、「そらあぁた、あぁたが一生懸命働いたけんでくさい」ち言うのは、もう神様のおかげは、どこへかいってしまうでしょうが。そういう意味でも家族親子がね。本当に神様のおかげで神様のおかげでと言う事。昨日、文雄先生が発表しておりました。私が、何時も言うように、ここの御造営の時に、百万円のいうなら、みまかりなさった百万円のお供えをした。
 十一年前の話を。それで私はおかげで、百万円という金には不自由しないと言う事を、皆の前で話しますけれども、実を言うたらここに、居並んでおられる、皆の方が百万円ぐらいには不自由しない方ばっかりなんだと。けれども私の違うのはね、神様のおかげでの百万だというところに違いがあるんだ。私の財産だと思ってないんだと。神様のおかげで、百万円に不自由しないんだという、そこが私の百万円は違うんだ。値打ちが違うんだと言う話をしておりました。
 だから本当になら、親父が神様のおかげと思うておっても家内が。例えばほんなら浪費するとするならば、有難さが分からんから浪費するのです。子供が要らん事に使うならば、その子供が一緒に、お父さん本当におかげでと思わんから。言うなら間違ったことにでも使うことになるのです。ほんならこれはほんなら、大坪私の一家の事になってくると、もうそれこそ一糸乱れず、ほんなら子供に至るまで親に至るまでが、神様のおかげでのものですから、自分の物なんかほんなら、いきなり買おうともしないと。
 これは経済だけの事じゃありません。お互いが一つ人間関係の上にも、そうした調和が取れるおかげ。次には金銭の上にも金とも言うなら、仲良うならせて貰う信心。病気なんかでもいうなら貧争病のない世界を目指しておる。合楽の信奉者は全部ここを目指しておるのです。だから頂かなければいけんのです。貧争病のない世界。そこから家族を挙げて本当におかげで、おかげでと言うて初めて信心の真が現されるのです。
 昨日、石井清さんがもう、何時もの事ながら、見事なお話をしてました。もう本当にもう家内子供、家族中がおかげ受けているんです。こう言う事を言ってます。お互いに人相が顔にあるように、心の相を知れといっております。顔色ではニコニコしてるごたるけれども。心ではそれこそ渋柿食わしたような心をしとりはせんかと、汚い心の相ではないかと。浅ましい心の相では、自分の心の相を見極めよといっております。そこにはねそのおかげで家内が子供達が、もう本当に見事におかげ頂いてるんです。
 昨日の御理解を頂くと私が頂いた、素直の直という字。ちょくという字ね。信心のいわば御徳を受けていく、おかげを頂いていくと言う事の根本になるものは、信心で言う所の素直さである。昨日これも文雄先生が言ってましたが、自分は素直とは思わないけれども、神様の前にだけは素直だとこう言っておる。それで私はそれに説明を加えて申しました。この人があれもこれもとは出来ないけれども、これはと決めたらです。
 例えば普通の者なら十の修行をする時に、もう七つか八つで負けてくださいと言ったような信心をするけども、文雄先生が場合だけは、こら私がずうっと永年見て思うことは、この人は十の修行を必ず十一も、十二もむしろ神様のほうへ、負けときまっしょと言うような信心をするところが素晴らしいねと言うて話した事でした。確かにそうです。それを一貫して、それを貫いているんです。信心にはそういう一つの、貫かなければならないものがございます。
 そこでなら石井清さんの場合なんかは、素直にいうならば、それを貫いておりますけれども、後の点々が足りないと言う事。その点々というのは、昨日私は一つを参拝と申しました。一つを御用だと申しました。その素直な心で参拝が続けられ、素直な心で御用が出来る。それが真なんだ。だから真で成就せん事はないというほどしのおかげが開けて来るんだというう風に申しましたですね。
 昨日の御理解で。そういう信心をです、しかもそんならば天の心とは、地の心とはというならば、神様の心が分かって、神様の心に合流していくというか。そこに焦点を置いてその信心。もうその事に掛り切るんですから、出けん事はないです。必ずここの修行生やら先生だけが、捨てて捨てて捨て切ってじゃないのです。掛かり切ると言う事は、そんなら商売も出来んか、仕事も出来んかというのじゃなくて、仕事の中にそれを見ていくのです。家業の中にそれを合楽では心行、もう一筋だと言っておるわけです。
 例えば秋永先生が、例えばもし心行を怠っておったら、例えば遅う帰ってきた家内は、なに準備もしておらんというならば、もう「お前ばっかりは」とこう言いたいところだと思う。心行が出来ておるから、どっこいこんなことで自分の信心のエネルギーを使うては勿体ないと、すぐ頂けるわけです。だから心行というのは、そういう素晴らしい功徳があるのです。心の中に掛け続けておらなければいけんのです。どうでもそのためにです、合楽理念をマスターさせてもろうて。
 合楽理念に則った生活をさせて貰うて、自分の心が有難うなる、自分の心に光が灯る。その光のところには、いうならば皆が集まってこないはずがない。そして家族が信心が出来るようになり、そして始めて頂くおかげを私は、真善美に輝くいや貧争病の先ずは、貧争病のない世界。いうなら貧とも病とも争いとも、縁を切ってしまうほどしの素晴らしいおかげになってくると思います。
 そこからほんなら家族が挙げてです。例えばほんなら、「今度の十年祭には。おらこげんしようと思いよる。」で家内が「そげんしなさるこつが、いるもんですか。」ち言うたら、もういかんのです。だから家族が、勢を揃えとかなければいけんのです。そして「ほんにそうですな」と言うて、さあ親も子供も一緒になって、その事におかげを頂かせて貰える時に、一家中で真を現すことになりますから、これが真善美輝かんばかりのおかげにも繋がっていく道理です。
 寒修行の今日は明けになりました。皆さんの何か体験発表があるそうです。その後茶粥会です、どうぞあの茶粥なんてん、食べんでん良かと思わずに、私共のいうならば、大坪一家が、あの命を繋がせて頂いたものですからね。ああ親先生が頂きよった、そのものだとそれとまあ、薬飲むと思うてね、一つ頂いて欲しいと思います。そらあなかなかまた乙な味なものです。お茶茶粥です。もうあちらこちらから、その自慢のお漬物が、今日集まっております。
 だからもうこれは他のお刺身やらね、そんほか色々なお煮付けやらではいかん茶粥というものは。もう茶粥というものは、もう本当にあの質素倹約のために出来てるようなもの。もうお漬物の美味しいのかね、しみじみとした、何か昆布の煮付けと言った様なものが合うんです。まあだ味わってない方は、是非あのそれを頂いて帰って頂いて、そしてこれから合楽理念が生まれたんだと。
 一つね一つしのんで頂いて、今日の寒修行を終わらせて頂き、お礼を申し上げたいと思います。今日はしじゅうし節と言う事は、大変難しい、死んで死んで死に切るとか。捨てて捨てて、捨て切ると言う事は、大変難しいようですけれども、合楽理念に基づいていきよると、いつの間にか捨てられる。いつの間にかそれが。死んだ気でと同じことに通うような心の状態が開けてきて、自分の心が高められてくる、視野が広うなってくる。有り難う楽しゅう出来る。
 昨日ある方がお先祖の御霊様が、もうその身体にダニがいっぱい付いとる。それでその孫さんに取ってくれと言っておるところを頂いた。御霊様ながらも助かりを願っておられるのである。犬やら猫についたダニは犬猫で、自分でとることは出来ません。私共もこげなものがあっちゃおかげ頂けんという癌がありましょうが。それはダニがついておるようなものです。
 けれどもそのこの苦しい、そん時にそれこそ地団太踏むようにして、神様におすがりをするのです。そすとある時神様がふっと、取って下さる事に。それはもう本当に、とてもとてもこの苦しみが取れる筈はないと思うようなのがです。簡単に取れるんです。それは神様が取ってくれるからです。犬やら猫のダニは人間が取ってやれば楽でありますように、自分では取れんのです。だから神様にすがらにゃいかんのです。
 こういう癌があってはそれこそ、神になれるなんては、とんでもあの、付かないことになってくるんですから、言うなら改まりに改まるためには、自分のそのおかげの受けられない癌に気付かせて貰うて、そのダニを、やはり取り除かなければいけません。ところが自分では取り除かれん。そこに神様に一心におすがりをして行くうちにです。神様がいつかです。なんかの調子にです、来て取って下さって、もう本当に人間が二人見るようになったという人達は、そういうおかげを頂いたわけなんです。
 だから御霊様だけが、そのダニに苦しんでおるのではない。私共もその、ダニのため苦しんでおるような場合がありますけれども、それを除かせて頂く。だからその除かせて頂くまでは、苦しいでしょうけれども、やはり取り除かなければ、本当の真善美輝くおかげにも、繋がってこないのですから、是非そういう願いを立てて、一つ合楽理念に基づいて、楽しく有難くしかも生神への道を、いよいよ精進させて頂きたいと思います。
   どうぞ。